連絡船 ── 航行記(第一期・第二期)



(一六)「あなたのような読みかた」

 さて、少し前にも妻に「世のなかのひとたちは、あなたのような読みかたをしないんだよ」といわれたんですが、たしかにその通りだろうなと思います。しかし、いいんですよ、それで。私が望みをかけているのは、そんな大多数のひとたちなのではなくて、ほんのわずかな数の、「背伸び」をするひとたちなんですから。世のなかの大多数のひとたちとは違う進みかたをするほんのわずかなひとたち、世のなかの大多数には絶対になりえないことをするほんのわずかなひとたちのことを考えます。「てんでんばらばらに」、各自がこんな読書をしているのは自分だけだと感じながら、読んでいく。それでいいんです。それぞれのひとが、そういう読書をするのをやめずにいるのが、そうせざるをえないからだというふうであればいい。ただ、そのひとたちが、それぞれにくたびれてしまって、そういう読書を放棄しそうになったときに、私のここでいうことがいくらかでも助けになればと思うんです。
 こうした私のいいかたが、やはりどうしても大多数のひとたちを意識したものであることをもう一度確認しておきましょう。だいたい、そういう大多数のひとたちの読みかたなしに、私がこんな企てを起こすこともなかったわけです。大多数のひとたちがいまのような読書をしているからこそ、私がこんなことをする羽目になっているわけです。
 なぜひとは「みんな」の読んでいる本を読むのか? これが私には不思議なんです。これをいい換えて、なぜ大多数のひとたちは「大多数のひとたち」の読んでいる本を読むのか? ── になることがばかばかしいんですけれど、そういうことです。「ヒット」とか「ブレイク」とか ──「三〇〇万部突破」なんてこともありますね ── その三〇〇万人は揃いも揃って何を考えているんですかね? 「群集心理」とか、そういうことをいって、わかったつもりになりますか?
 しかし、こういうことももちろん考えなくてはなりません。そもそも一般の書店に並ぶような商品として出版されたものは、数千部にせよ、それだけの読者を期待して出されたということです。それは、少なくとも、当の本の編集者の判断によって出版されています。そこで、私がそういう本を読むことですら、規模こそ違え、実は原理的には、大多数の読者の読む読みかたと同じ ── 私ただひとりだけしか読まないという本はありえない ── なんです。しかし、この「規模こそ違え」が非常に重要なのだと、私は思っているんです。
 たとえば、ドストエフスキーの『悪霊』を私が読みますね。『悪霊』がそんなに誰にも彼にも読まれているとは思えませんが、それでも、ごく少数ながら、確実にこれを読むひとたちがいつづけたわけで、しかも、それが百年以上に亘っている。その間にこれを読んだひとの数は膨大なものではあるでしょう。そのうえで私も読んだということになる。だから、私の読書も「規模こそ違え」、実は原理的には、大多数の読者の読む読みかたと同じではないか? ── と、そういうことです。
 この考えかたはちょっとおもしろくて、いま私が批判するような、「みんな」の読む本 ──「三〇〇万部突破」など ── がいったい百年後にまで残っているかというと、残っていないでしょうね。それにしても、ある作品が発表された時点で、ある数の読者がついていなければ、その作品の後までの残りようもないということはあるのじゃないでしょうか。発表された時点での、ある数の読者です。そうして、その後ということを考えなくてはなりません。
 いきなりヴァイオリンの話をしますけれど、もし今後三十年間世界じゅうの誰ひとりとしてこの楽器を弾かないということがあったとします。すると、三十年後、いざこの楽器を再び弾こうとしたとき、どういうことになるんでしょうか? 私の考えているのはそういうことなんです。誰かが、ある作品を読み、支持しつづけ、他の誰かにもそれを伝えていく、ということの重要性です。
(二〇〇七年五月)

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